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五十集

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目次

沿岸と城下を結んだ行商集団・五十集

五十集と書いてイサバと読む。塩や魚類、海藻等を商うことを言う。磯場が転訛したものとも言われるが、五十集を営む家を五十集屋と言い、それを営む人を五十集師と呼んだ。藩制時代、盛岡城下と宮古を結ぶ閉伊街道は、沿岸の海産物が行き交った「五十集の道」とも言われた。

宮古ヨリ御城下迄 五十集の経路と日数

盛岡城下と盛岡の外港に定められた宮古港とを結ぶ閉伊街道は約100キロ。その道程は2泊3日かかるものだった。五十集師は、その道を経て城下盛岡へと海産物を運んだ。その盛岡行きには3日追い(普通)と2日追い(急行)の例があった。
まず3日追いは、往路1日宮古発、川井泊。2日目門馬または松草泊。3日目区界を越え盛岡泊。4日目盛岡滞在、販売及び米の仕入れなど。帰路は5日目からで、盛岡発から松草または門馬泊。6日目川井泊。7日目宮古着。下り荷の配達、8日目滞在、上り荷の仕入れとなる。
これに対し、急行となる2日追いは、往路1日目宮古発、川内泊。2日目盛岡泊。3日目盛岡滞在、販売仕入れ。帰路4日目盛岡発、川内泊。5日目宮古着。6日目滞在、上り荷仕入れであった。
これは宮古の五十集の例だが、一方では大迫行きの津軽石の業者の例もある。
往路1日目津軽石発、花輪根城経由下川井泊。2日目小国の峠を越え附馬牛泊。3日目馬越峠を越え大迫泊。4日目滞在、販売仕入れ。帰路5日目大迫発、附馬牛泊。6日目下川井泊。7日目津軽石着。8日目滞在、配達仕入れとなっている。

塩引鮭、魚粕、塩などを城下へ運んだ

盛岡城下と領内東海岸の主要湊宮古を結ぶ宮古街道は北上山系の高い峰を越え、厳しい渓谷の難所を越えての片道100キロ余りの往復であった。その日数は2泊3日。
近世、世界有数の漁場と言われる三陸沿岸の海産物が城下へと運ばれた宮古街道は、五十集の道とも呼ばれた。浜からは五十集衆が、城下盛岡を目ざして毎日数十頭の馬を引いて往来した。
宮古湾は、北上山地と重茂半島による断崖と岩場、そして閉伊川と津軽石川河口付近は遠浅の海岸となっている。このため、多様な海産物の宝庫だった。寛政9年(1797)の調べ(「邦内郷村史」)によると、当時の産物は、鮭塩引、鯛、鮃、鱸、鱒、鰯、赤魚、鰹、鰹節、蛸、鮑、鰈、スルメ、唐貝(からげえ・干しエイ)、魚油、シメ粕、塩などが記録されている。また昆布を乾かして砕いた「布の粉」は庶民の常食で、飢饉の多い南部藩では他領への積出しを禁止した貴重な食料だった。  城下盛岡には多くの市日があり、肴町では7、17、27日に市が立った。肴町の肴は酒菜の意で、米以外の海産物、農産物を商う小売店が多くあったことに、その町名の由来がある。五十集衆はその日を目指して城下へと海産物を運んだのである。

五十集荷の仕入と販売 下り荷(宮古発)と上り荷(帰り荷)

  • 【上り荷】

上り荷の場合、塩及び海藻の仕入れは主として外洋に臨む崎山及び重茂方面から集荷した。宮古千徳の五十集は崎山方面から仕入れ、津軽石及び赤前の五十集師は重茂方面から仕入れていた。古文書に重茂の鵜磯村のことを売塩村(ウリシオムラ)と記録してることから塩の産地であったことが分かる。また赤前の釜ヶ沢は塩焚き釜が据えつけてあったことからこの名が付いた。
鮭の仕入れは宮古湾内の各浦々の地引網から仕入れ、それを自宅で塩引きに加工し出荷した。鮭の規格は大中小の3段階とし、仕入れにはこの3段階の区分について網元の帳場と五十集師とが、血の気を上げて争ったという。この区分は原始的なもので、まず大鮭を「大(ダイ)」と言い、鮭の目玉の側から尾鰭の元までの長さが一尺八寸(約55センチ)あるものを大と決めたが、その測り方は人差し指と中指を開き六寸にして、これを三回、鮭の体側に当て、なお鱗が3枚以上残る鮭を大と決めた。それを言い表すに「ミロクスン(六寸)コゲミッズ」と言い「ミロクスンコゲフタツ」以下の鮭を中(チュウ)それより小振りな小さい鮭を目勘で小(ショウ)と決めた。
大は10本入一俵、中は20本入一俵を二本ただみと言い、小は30本入で三本ただみと言った。俵の値段は大中小とも同額で、萱俵笹口蓋包装とした。
鮭の測り方は明治時代になって魚鈎の柄を一尺八寸の長さに作ってそれで測り、大正時代から重さで測るようになった。
五十集師は鮭代金を網切上期まで入金しないで、その代わりに網元へ米の仕送りをした。その間、五十集師は鮭代金を金融し、大きな利を得ていた。従って昔、五十集をやった家は、構えが大きく土蔵もあり、馬も繋ぐ庭も広く一見して裕福に見えた。

  • 【下り荷】 

下り荷の場合、主なるものは穀類で、米粟稗大豆等は城下の盛岡・大迫通・安俵通は共に豊富で、仕入は容易かった。このほかに宮古の商店より木綿・古着・綿糸荒物等の包みを依頼された。また商店や代官所から書状の依頼を受けたが、この料金は割高であった。しかし、それよりも割高で五十集師に喜ばれたのは、旅人の駄送だった。一荷駄としては軽荷であったゆえに運賃は割高だった。

五十集の宿泊 宿泊料は米などで支払う

  • 【宿泊料】

五十集師の旅籠はいつも米一升が相場で、他に持ち込み米一升と自分の食べる塩引き鮭の切身などであった。持ち込み米一升は馬方の3食分で昼食分は布袋に詰めた。夕食と朝食には宿で出すおかずの他に持ち込みのおかずなどを食べた。昼食時は時間を惜しみ、歩きながら袋飯を食べたので、箸はいらなかった。腹を満たすだけで栄養のバランスは全然考えなかったようだ。
馬の宿料は馬屋代、飼料のやた代、やだ釜の湯沸かし代、飼料用。大豆は馬一頭二升か三升でその煮代、合わせて馬一頭で米一升が普通で、三頭引きの宿料は米三升となり、人馬一泊の宿泊料は合計米四升となった。

  • 【宿料の支払い】

宿料の米や持込米は、下り荷の米俵より計り出して宿へ支払ったものである。宿は常宿で次の日程をあらかじめ知らせておくので、宿では来泊予定日の夕方には遠くから鈴を鳴らして来る五十集馬の中から、鈴の音色で自分の常客を判断し、やだ釜に火を入れたり預かりおく大豆を煮るなど準備をした。馬が着き荷を下ろして、馬を馬屋に入れるまでには、丁度やだ釜の湯が良い温度に沸いていたという。

五十集の携行品と服装 鑑札を取得して街道を往来

  • 【五十集鑑札】

鑑札というのは五十集の許可証で、礼金を納めて代官所より渡されたものである。
文政8年(1825)宮古本町東屋の馬引きである、横町の馬之助の所持していた鑑札は縦11センチ、横7センチ、厚さ1センチの桂の板で出来ている。表に「五十集 宮古通 馬之助」、裏には「文政八年酉十一月改 村松喜八郎 沢田一郎兵衛」と書かれている。村松と沢田は当時の宮古代官であった。この鑑札は五十集道中必ず所持していなければならない決まりであった。

  • 【発火用具等】

火縄を普段腰に下げていながらも、火打金、火打石、もぐさ、つけぎ等を濡らさぬように油紙に包み所持した。他に焚付用の松の根。非常用の馬の薬を携行した。矢立は特に用事の時だけ持った。

  • 【鈴、山刀、小鎌、鉄爪等】

鈴は輪鈴で径13センチ位の大きさのもので、狼避けに馬の首に下げた。馬格の貧弱な馬は鈴より安いと言われるほど、鈴は高価なものであった。 山刀はキリハと言い、幅広い短刀形のもので、刀は武士でなければ持つことが出来ないため、山刀を護身用に持った。小鎌は馬のわら靴を取替える時、緒を切るために使ったもの。 鉄爪は10センチ四方位の鉄板に爪(スパイク)の付いたもので、馬のわら靴と蹄の間にはさみ、馬のすべり止めに使ったもので、馬子は鉄爪を落とさぬように注意して歩いた。

  • 【矢立、油紙、ござ、竹串等】

読書のできる五十集師は矢立(墨筆入)と帳面を持ちメモしたが、大方の五十集は矢立を持たなかった。油紙は書状を頼まれた時、防水用にした。ござは馬一頭当たり3枚持ち、雨雪の時、荷の上にかけ、竹串で刺し止めた。串は20センチ位の長さのもので、馬一頭12本ほど携行した。

  • 【五十集師の服装】

服装は肌着の上にナガドンザ1枚着、スッパキ・スワラジ・モンパ帽子・あみ笠・ござ合羽といういでたち。雪道の時はツマゴハキであった。肌着は本綿のタバツギ(古きれ)で作ったものであり、ナガドンザは麻の長い着物の裏にタバツギを縫い刺した物でほとんど保温のきかいない着物であった。股引きもなく、足袋も履かないでわらじを履いたので、スッパキスワラジと言った。モンパ帽というのは、木綿の厚手で1メートル位の三角形をしたきれで、これを頭から首まで巻いて、寒さを防いだものである。

宮古街道の通行税 梁川の代官所で通行税を納める

  • 【城下へ付出役、付入役】

種々の荷物を付入るにも、付出すにも通行税を取り立てられたもので、米一升から二文乃至四文、または米一駄から二百文乃至二百五十文、塩は一升から二文乃至十文で、税率はその時代により異なった。魚類にもやはり城下へ付入役を一駄二百文位課せられた。

  • 【代官所管内毎の通行税】

大迫通り行きは、附馬牛で遠野代官所へ通行税を納め、さらに大迫で大迫代官所分を納めた。安俵通り行きは遠野代官所分と安俵代官所分とを、往復に納めたものである。
安政2(1855)年と6年に、豊間根や津軽石の五十集衆が附馬牛村で役人不足のため、通行税を納めないで通って来たら、つつじ峠で役人に追い付かれ、遠野へ引下げ牢屋に入れられた。村肝煎の津軽石の覚次郎、赤前の又蔵、豊間根の文平、荒川の米右エ門等が連名で詫証文を出して連れ戻したことや、津軽石の源左エ門と赤前の又蔵が遠野代官所へ行ってお詫びをして五十衆師を連れ帰った記録が、赤前の民家に残っている。

難所と駄馬の事故 難所では多くの馬が墜落

  • 【主なる難所】

かどの神の難所は上根市と花原市間にあり、川目を通れず大そうじ小そうじの沢に入り難儀をして山越えした所で、冬には山道が凍り、度々馬が足をすべらしそのまま谷底に転がるなどの悲惨な事故のあった所である。それ故津軽石の五十集はかどの神を避け根城より川を渡り花原市へ出たのである。
大峠も難所で、川内と平津戸間にあり、川目が山峡でしたも渕になっているため通行出来ず、仕方なく大峠を越えたものである。峠の細道が凍ると足をすべらし、馬は「追いかけ」と言って三頭連繋しているため一頭が落ちかかると他の二頭も手綱を引かれ、三頭の駄馬が荷物もろとも深い谷川へ墜落の惨事を起こし、馬子を泣かせたものである。 藩制時代は馬を斃すと、死馬の耳と尾を切り取り、死馬手形(届書)と共に証拠品として代官所の牛馬役人まで提出しなければならない決まりであった。
赤前の山根家は昔五十集をした家であるが、大峠で深雪のとき谷川へ荷物もろとも駄馬三頭を墜落させ、近くの小滝部落の人たちを頼み、馬の耳と尾を切り取り、小滝の人たちに五百文謝礼を出して、耳と尾のみ持ち帰った。それ以来五十集を廃業したという。
つつじ峠も難所のひとつで、小国の大仁田という附馬牛間にある。標高約千メートルの早池峰山に続くだけの山で、道中吹雪に遭うと進退極まり人馬もろとも遭難死するという難所であった。

  • 【冥福を祈った馬頭観音】

閉伊川街道の国道106号の道端で馬頭観音と刻まれた碑を見かけるが、これは昔、郷土の五十集師が、不慮の事故で愛馬を斃し、その後の往復に悲惨な愛馬の横死を偲び、動物愛護の精神にかられその冥福を祈るべく建立した碑。いずれもそれぞれに痛ましい哀話を秘める碑である。

  • 【不慮の事故による野宿】

日の短い冬の日に駄馬事故を起こすと、宿まで着けず仕方なく道側に野宿することもあった。野宿するに当たってはまず狼の襲来を予想し、道側の防御に適する場所を選び、鞍や荷物を周囲に配し障害物とした。薪用の枯木をたくさん集めて、夜通し火を炊き仮眠をとったが、夜中に狼の襲来を知らせる馬の荒い鼻息と鈴音に、五十集師は目を醒まし暗闇の中で狼のいると思われる方向に、火の付いている薪を数本投げつけて、狼を退散させながら夜明けを待ったものである。

  • 【駄馬の馬格と供給】

昔の駄馬は日本在来種の馬で体格の貧弱な小形の種類であった。現在のペルシア系またはサラブレット系のような馬格の大きな馬ではなかった。体高は四尺五寸位(1.3メートル)あり、これを記録には尺五寸というように四尺を除いて記している。当時農家では一軒で二、三頭飼育していたので駄馬の供給は容易であった。

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