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三閉伊一揆主要人物

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== '''三浦命助''' ==
 
== '''三浦命助''' ==
 
'''嘉永一揆の内情を知る真の重鎮。脱藩し「三閉伊集会露顕状」で一揆の闇部分を暴露(大槌代官所管内・栗林・現・釜石市)'''<br>
 
'''嘉永一揆の内情を知る真の重鎮。脱藩し「三閉伊集会露顕状」で一揆の闇部分を暴露(大槌代官所管内・栗林・現・釜石市)'''<br>
嘉永一揆に大槌通りから参加、弁舌、筆も立つことから一揆代表者45名の中でも重要な立場として仙台藩、南部藩と交渉した人物。命助(盟助と記す場合もあり)は文政3年(1820)栗橋村の肝煎りの家に生まれたという。これは命助が安政元年(1854)に脱藩した際の日記の年齢から追ったものだ。盛岡へ出て小商いをしていたとも伝えられ、天保の終わり頃には大槌で塩や海産物の商いをしていたとされる。嘉永一揆の際は大槌通りへ入ってからこれに接触し、以後一揆全体を支配するようになる。命助は一揆代表者として仙台城下に残り一揆の主張が有利に展開するよう大活躍をしている。しかしその反面、一揆が得た金銭によるトラブルや仲間割れ、一揆終終息の責任転化の問題に巻き込まれ苦悩する。そして、嘉永一揆が終息した翌年の安政元年栗橋村から一揆が発生、これを命助が説得し終息させたがこれが仇となり窮地に追い込まれる。命助はこの一揆が自分を陥れるため仕組まれた官製一揆と見抜き脱藩を決意、監禁されていた宿を脱出し仙台領へ逃れた。ここで命助は「三閉伊集会露顕状」などを執筆、仙台領へ達してからの嘉永一揆の内情を暴露している。命助は追われる身となり京都へ上り、二条家の家臣として南部領に戻ったが捕縛され安政4年(1857)盛岡の揚屋に収監される。そこで命助は元治元年(1864)に牢死するまでの6年間放置された。元号も明治となったが命助はそれも知らず45歳で没した。
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嘉永一揆に大槌通りから参加、弁舌、筆も立つことから一揆代表者45名の中でも重要な立場として仙台藩、南部藩と交渉した人物。命助(盟助と記す場合もあり)は文政3年(1820)栗橋村の肝入りの家に生まれたという。これは命助が安政元年(1854)に脱藩した際の日記の年齢から追ったものだ。盛岡へ出て小商いをしていたとも伝えられ、天保の終わり頃には大槌で塩や海産物の商いをしていたとされる。嘉永一揆の際は大槌通りへ入ってからこれに接触し、以後一揆全体を支配するようになる。命助は一揆代表者として仙台城下に残り一揆の主張が有利に展開するよう大活躍をしている。しかしその反面、一揆が得た金銭によるトラブルや仲間割れ、一揆終終息の責任転化の問題に巻き込まれ苦悩する。そして、嘉永一揆が終息した翌年の安政元年栗橋村から一揆が発生、これを命助が説得し終息させたがこれが仇となり窮地に追い込まれる。命助はこの一揆が自分を陥れるため仕組まれた官製一揆と見抜き脱藩を決意、監禁されていた宿を脱出し仙台領へ逃れた。ここで命助は「三閉伊集会露顕状」などを執筆、仙台領へ達してからの嘉永一揆の内情を暴露している。命助は追われる身となり京都へ上り、二条家の家臣として南部領に戻ったが捕縛され安政4年(1857)盛岡の揚屋に収監される。そこで命助は元治元年(1864)に牢死するまでの6年間放置された。元号も明治となったが命助はそれも知らず45歳で没した。
  
 
== '''三上倉治''' ==
 
== '''三上倉治''' ==

2015年1月23日 (金) 09:58時点における最新版

目次

[編集] 佐々木弥五兵衛

牛方として藩内を歩き一揆の必要性を説く・弘化四年南部領三閉伊一揆の指導者(島の越)
佐々木弥五兵衛は江戸中期(天明7年1787※推測)の浜岩泉切牛村に生まれたとされる。切牛は現在田野畑村島の越となっており、漁港や海岸線へ降りる手前の丘陵地帯だ。
弥五兵衛の生業は牛を引いて内陸部へ塩などを運ぶ牛方であり、通過する村々で南部藩の悪政を農民たちに説明し一揆の必要性を説いて歩いた。
文化11年(1814)弥五兵衛は隣村の岩泉・中里村で起きた農民一揆を見守り影から支援したという。中里一揆は首謀者として二名が津軽牛滝へ流罪となったが、藩は知行していた中里氏から領地を没収し直轄の御蔵地となり成功を収めた。弥五兵衛はこの顛末を事例として天保年間から約17年間にわたり、南部藩全域を歩き一揆の必要性を遊説して回った。
また弥五兵衛は塩を運びながら念仏講の導師となり各地で頻発した一揆の影の支援者としてその名が知れ渡った。そして弘化4年(1847)11月20日、弥五兵衛が指導者となって三閉伊一揆がおこる。三閉伊から参加した百姓たちは総勢1万人にも達し遠野へ終結。南部藩との直接交渉の場を得た。一揆は農民たちの要求が認められ約1ヶ月後散会、参加者も無事に帰郷した。しかし弥五兵衛は南部藩が今回の約定を実現しない場合は直ちに次の一揆を起こすための潜伏活動をはじめた。しかしこれが密告により露呈し南部藩により捕らえられ嘉永1年(1848)3月斬罪となった。

[編集] 畠山多助

弥五兵衛の意志を継いだ若きリーダー・仙台藩領まで達した嘉永六年南部領三閉伊一揆の指導者(田野畑)
弘化4年(1874)三閉伊一揆の指導者・佐々木弥五兵衛とともに一揆に参加し、6年後の嘉永6年(1853)の三閉伊一揆の指導者、畠山多助(太助と表記する場合もあり)は文化13年(1816)に田野畑村に生まれた。多助の青年時代である天保年間は凶作が続いた。そんな時期に切牛村(浜岩泉・元田野畑村・島の越)の牛方、佐々木弥五兵衛の思想に傾斜し、弘化4年の一揆に参加。この一揆は遠野まで行き南部藩に対して約定を取り付けて一見成功したようにみえたが、南部藩は百姓たちの要求を実現させることはなく、翌年には弥五兵衛を捕縛し斬罪に処している。弥五兵衛も一度の一揆で百姓たちの要求が通るはずはないと予測しており、その意志を引き継ぎ多助は三閉伊中を奔走し同士を集め一揆の必要性を説いた。多助の家は弟の与市と和野の三上倉治が助け、一揆の運動資金も捻出し、嘉永6年3月、畠山多助を指導者に三閉伊一揆が決行された。1万人以上に膨れあがった一揆は6月6日に南部領から仙台領へ越境、その年の10月27日に代表者へ安堵状が渡るまで約8ヶ月間多助は一揆のリーダーとして指揮をとった。維新後は明治政府による検地に対して不穏な動きありと疑われ盛岡へ連行され、取り調べ中に抗議の自殺をしている。58歳であった。

[編集] 畠山多次郎

嘉永六年三閉伊一揆の指導者・多助の父・本家は田野畑村肝煎りとして太右衛門を襲名(田野畑)
畠山多次郎(太次郎と記す場合もあり)は仙台領まで達した嘉永6年の三閉伊一揆の指導者・畠山多助の父親であり、天保7年(1836)田野畑村、普代村、黒崎村、浜岩泉村、沼袋村の5ヶ村から500人余りが蜂起して岩泉まで押し出し、岩泉の御給人・佐々木彦七に説得され善処を約束して終結した一揆の代表ではなかったかとされている。
多次郎は田野畑地区の畠山氏の祖とされる家から分家した「下脇(したわき)」の初代にあたる人物だ。本家は屋号を「田ノ端(たのはた)」とする地区の草分け的旧家で古くから地区民より信頼されており、江戸中期の寛政年間(1789~)畠山太右衛門の時に、南部野田代官所から肝煎りを命じられ、以後三代にわたり太右衛門を襲名して田野畑村肝煎りを続けてきた家柄だ。多次郎はそんな血をひいてか百姓の中にあって珍しく弁舌がたち印象もさわやかだったという。それ故に時々出張してくる野田代官所役人には肝煎りの父、太右衛門に代わって役人を応接することも多かったという。 多次郎が三代目太右衛門から分家して新築した時、多次郎の家は役人の宿舎とされたという。しかし肝煎りの家からの分家とはいっても、畑六反歩、山林五町歩余り、草刈り場一町歩に小さな住居が与えられたにすぎなかった。文政8年(1825)の飢饉の時には10歳になったばかりの多助も山仕事、畑仕事で働かねばならなかったという。

[編集] 畠山喜蔵

嘉永六年三閉伊一揆の指導者・多助の叔父・嘉永一揆首脳陣の中での最年長者(田野畑)
畠山喜蔵は嘉永一揆の指導者・畠山多助の叔父にあたる人物だ。天明4年(1784)畠山太右衛門の第二子として生まれた。嘉永6年の三閉伊一揆で甥にあたる畠山多助を支援した時は喜蔵は68歳であり、この一揆の首脳陣の中では最年長者であった。一揆が南部領から仙台領へ越境し後に交渉段階へ入った頃、帰郷していた老齢の喜蔵の身辺でも密偵などがうるさくつきまとうため、喜蔵は自宅より3キロほど離れた隣村・川平の「つぶあな」と呼ばれる山中の洞窟に隠れていたという。食事は人目に付かぬよう家人が何日分もまとめて運んでいた。その後安堵状が渡され探索や密偵が寄りつかぬようになってから家へ戻り畑仕事に専念したという。
安政6年(1859)菩提寺である小本村の宗得寺(そうとくじ)の住職が喜蔵を訪ね、寺の財政が緊迫しており援助を求めた。喜蔵は寺再興に奔走した。文久3年(1863)に没した喜蔵に対して宗得寺住職は農家にしては珍しい大きな墓碑を建立した。この墓碑は藩主巡検の際にはムシロで覆い隠したと伝えられている。

[編集] 佐々木彦右衛門

嘉永六年三閉伊一揆先鋒隊の代表として一揆の南下を誘導。先達として孤軍奮(年呂部・としろべ)
嘉永6年の三閉伊一揆が野田~普代~田野畑~岩泉~小本~田老~崎山…と行軍し明日は宮古へ入るというので一揆筆頭人・畠山多助を含めた先手組とされる一番隊は女遊戸に野宿したという。先手組には多助とともに一揆の諜報活動と一揆が進む各村々の状況や役人の動向などを探る探索係りの年呂部村の佐々木彦右衛門がいた。
彦右衛門は文政1年(1818)の生まれで「塚田源蔵流、石尊真石流柔術・棒術」という武芸を藪川村の千葉徳蔵という人から学んでおり免許皆伝の使い手だった。さらに鉄砲術にも長けており工夫を凝らし人々を驚嘆させたという。また、山伏として修験や呪術にも長けており一揆の先鋒隊においては武術者であり、呪いや山伏のネットワークを使える人物でもあった。
彦右衛門という人物は一揆の中で表にはその名が出てこないが、一揆の影の存在として諜報活動に暗躍した人物ではなかったかと考えられる。
一揆終結後は年呂部の自宅へ戻り、農耕、狩猟、呪術などをしながら明治24年(1891)73歳で生涯を閉じた。墓碑は現在も年呂部の生家裏にある。

[編集] 佐々木萬吉

嘉永六年三閉伊一揆で武術者として先頭に立つ。一揆終息後は道場を開き武術を指導(年呂部・としろべ)
佐々木萬吉は先に紹介した佐々木彦右衛門の9つ年下の弟にあたる。文政10年(1827)に生まれ、兄と同様に「塚田源蔵流、石尊真石流柔術・棒術」を藪川村の千葉徳蔵という人から学んでおり免許皆伝の使い手だった。一揆では宮古に入ってから南部鉄山支配役人の経営する酒蔵を襲ってその大樽のタガを片っ端から切断してまわった。萬吉は樽を飛び越えながら次々とタガを切ったがその身体に一滴の酒も浴びなかったという。
萬吉は一揆終息後、生家へは戻らず宮古や田代など各所に道場のような小屋を設けそこで弟子をとり武術を教えて暮らしたという。明治20年頃、60歳をこえてから田野畑村に戻り、生家より少し離れた三田市川のほとりの高地を開墾して住居とし、やはりここでも武術を教えていた。
鉄砲術にも長けていた萬吉だったが宮古にいた明治初年頃、熊撃ちに歩いていて熊と間違い誤って人に怪我を負わせた。宮古から役人が来て事情を聞いたうえ、それではここに木綿糸をぶら下げるから十間離れた所からこの糸を射れたら罪は許すというので萬吉はそれに応え一発で糸を撃ち切ったという。萬吉は大正3年(1914)89歳で没した。墓碑は岩泉町乙茂の公葬地にあり、墓碑には弟子たちの連名が刻まれている。

[編集] 三浦命助

嘉永一揆の内情を知る真の重鎮。脱藩し「三閉伊集会露顕状」で一揆の闇部分を暴露(大槌代官所管内・栗林・現・釜石市)
嘉永一揆に大槌通りから参加、弁舌、筆も立つことから一揆代表者45名の中でも重要な立場として仙台藩、南部藩と交渉した人物。命助(盟助と記す場合もあり)は文政3年(1820)栗橋村の肝入りの家に生まれたという。これは命助が安政元年(1854)に脱藩した際の日記の年齢から追ったものだ。盛岡へ出て小商いをしていたとも伝えられ、天保の終わり頃には大槌で塩や海産物の商いをしていたとされる。嘉永一揆の際は大槌通りへ入ってからこれに接触し、以後一揆全体を支配するようになる。命助は一揆代表者として仙台城下に残り一揆の主張が有利に展開するよう大活躍をしている。しかしその反面、一揆が得た金銭によるトラブルや仲間割れ、一揆終終息の責任転化の問題に巻き込まれ苦悩する。そして、嘉永一揆が終息した翌年の安政元年栗橋村から一揆が発生、これを命助が説得し終息させたがこれが仇となり窮地に追い込まれる。命助はこの一揆が自分を陥れるため仕組まれた官製一揆と見抜き脱藩を決意、監禁されていた宿を脱出し仙台領へ逃れた。ここで命助は「三閉伊集会露顕状」などを執筆、仙台領へ達してからの嘉永一揆の内情を暴露している。命助は追われる身となり京都へ上り、二条家の家臣として南部領に戻ったが捕縛され安政4年(1857)盛岡の揚屋に収監される。そこで命助は元治元年(1864)に牢死するまでの6年間放置された。元号も明治となったが命助はそれも知らず45歳で没した。

[編集] 三上倉治

弘化四年、嘉永六年の三閉伊一揆首脳部。交渉中の多助の指令で一揆の再挙を実行した(和野)
弘化4年、嘉永6年の二度にわたる三閉伊一揆において、一度目は畠山多助とともに弥五兵衛の一揆に参加し、弥五兵衛の意志を受け継いだ二度目の一揆では畠山多助と一体になって活躍したのが和野の三上倉治だ。倉治は多助より4つ年下で弘化一揆の時は28歳、嘉永一揆の時は34歳であった。
嘉永一揆が南部領から仙台領へ越境し、仙台藩の配慮で代表者45名を残して8600人余が帰村した際、倉治は多助の要望によって唐丹村に残っていた。そして6月13日、代表者45名が仙台城下へ移動した際も倉治は仙台城下へ潜伏していた。交渉が二転三転する中、この一揆の決着をつけるには一揆再挙しかないと多助らが判断。その指令を受けて倉治は単身馳せ帰って野田村から一揆を再挙させた。この一揆が宮古へ到達した時はすでに6000人となっており、宮古では南部藩の弓組、鉄砲組、同心など600人を配置、女遊戸地区でこれに対応した。しかし一揆は四散し一部が江戸へ至り公儀に速報され南部藩は窮地に追い込まれる。  三上倉治は二度の一揆に参加しこれを支援したため多くの資産を失い、晩年はわずかな畑の耕作と沿岸漁業に終始した。明治7年(1874)71歳で没した。墓碑は和野の公葬地にある。

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